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かつての学校の管理教育が仕事にも影響する

社労士事務所に勤め、半年ほどで転職して今の職場に約4ヶ月。

こうやって雇われ人として仕事をしていると、たまに、かつての学校の管理教育が大きな弊害をもたらしていると感じる瞬間がある。

仕事では、(業種や社風などにもよるが)主体性を持って取り組む必要がある。つまり、逐一上司からの指示を待って動くのではなく、自分の頭で考えながら、先を見て行動していくことが求められる。そこには裁量権があるので、ある程度の自由がある。

自由といえば、私はかつてフリーランサーだったので、まさに自由のパラダイスだった。指示を出す人が誰もいないので、一人親方のようなもの。自分の好きなように物事を動かしていった。不安定ではあったが、それはもう、実に楽しいものだった。

だが、指示を出す人が登場すると、途端に私は指示待ち人間に傾く。というより、主体性を持って取り組むこともできないことはないはずなのに、あの頃の感覚がよみがえってくるのだ。

そう、あの頃とは、昔の学校生活。教師に管理された日々だ。

中には主体性を重んじる先生もいたが、ほとんどの先生は、指示どおりに動かないと怒ったし、評価にも影響した。クラスのリーダーは、本来もっと主体性を持ってクラスメイトを率いることのできる人物がふさわしいはずなのに、先生の言うことをきちんと守る人がリーダーになったりした。いざ主体性がある人がリーダーになったときには、先生がその子を煙たがるような有様だった。

そりゃ、子どもは大人よりも知恵が少ないのかもしれない。が、主体性を潰しにかかる先生の実に多かったこと!「子どものくせに生意気だ!大人をなめるな!」と言わんばかりに、先生は子どもを叱りつける。

言ってしまえば、子どもの反抗も、一種の主体性だ。そこに耳を傾けようともせず、多くの先生はねじ伏せようと必死になる。教師としての威厳を保ちたいのだろうが、はたから見ていると、そこには威厳など微塵もない。

そんな光景を見て、そんな環境で育った人は少なくないだろう。

私もそうだ。特に私は真面目な生徒だったので、通知表の評価を気にし、毎日先生に好まれるように、言うことを聞いて、宿題もきちんとやって、先生の意見には反発しないようにしていた。いわば優等生だった。

だが、その弊害が今になってやってきた。

職場というのは、学校のように組織だ。私を評価する人がいるし、仲間もいる。

そういう所に身を置くと、なぜか優等生になろうとしてしまう自分がいる。上司からの評価を気にしたり、怒られないようにと過剰に気にしたりする。指示があるまで、なかなか動けないこともある。

私は最近、あるリーダーを任された。しかしながら、全然準備が進まなかった。そのため、上司が「ねえ、あの件、準備は大丈夫?」と尋ねてきた。もちろん私が準備をしていないことを知っている。上司は続けて「あなたリーダーなんだから、自分の頭で考えて、色々練って、そこで改めて上司に報告すべきでしょう!?黙って待っていてはダメなの!」と私をお叱りになった。

正論だ。

しかし、無意識的に納得できない自分もいた。

「上司の指示を待たずに勝手に動いたら、先生に怒られる」という感覚に陥ったのだ。もちろん、先生などいやしないんだけど。

これは、世の中の嫁が、姑が死んだ後も姑の存在を意識し続けるようなものに近い気がする。(分かりにくかったらすみません)

学校の管理教育のせいにするのは良くないし、自分から変わっていく必要があるけれど、やっぱり学校の管理教育が脳裏に焼きついてしまっている。

私を叱った上司も、おそらく管理教育を受けてきているはずだが、だからこそか、私にマウントをとるような気もする。私を叱りつけるその姿は、まるで先生のようだった。

結局、あらゆる形で、学校の管理教育は仕事に影響している。実際、この日本の社会でメンタルを壊す人は少なくない。学校でも職場でも、自尊心を砕かれ、希望を失いかけている人は多いだろう。

最近、働き方改革とか言っているが、まず先に、学校教育の在り方が変わる必要があると思う。昔よりは良くなっていると信じたいが、聞くところによると、今も昔もそう変わらないっぽいのだ。