大人は、小さな幸せを感じることを忘れているのかも
昨日、素敵なツイートを発見した。
小学生の頃、家族で遠出した帰り道、車の中で寝てしまった。でも家に近づくと少しだけ意識が戻り、あっ!今あの交差点だ!あっ!今あの橋渡った!あっ!今バックで駐車してる!という体験をした。今ではそんなことさえ愛おしいくらい幸せな思い出。マジでこんな小さな幸せでOKなんよな。
— リック|覚醒★王子 (@rickbook_blog) December 7, 2020
小学生の頃、家族で遠出した帰り道、車の中で寝てしまった。でも家に近づくと少しだけ意識が戻り、あっ!今あの交差点だ!あっ!今あの橋渡った!あっ!今バックで駐車してる!という体験をした。今ではそんなことさえ愛おしいくらい幸せな思い出。マジでこんな小さな幸せでOKなんよな。
このツイートを見て、グッときた。
ツイート主の意図と違っていたら申し訳ないが、私は、大人になると鈍感になり、小さな幸せに気付くことができないものだと思った。
子どもの頃は、家から駅まで歩くだけで、大冒険だった。道端の草花を見ては、綺麗だの気持ち悪いだの言って、ときにはジャングルさえもイメージした。側溝の水の流れを見ては、「今度は水のステージだ!」と、まるでゲームの世界にいるかのように楽しんでいた。
しかし、大人になるにつれ、そういう感性が封印されていった。気づいたら、将来に対する漠然とした不安や、仕事に対する義務感のようなものにさいなまれていた。
さて、あなたはいかがだろうか?きっと、多くの人は、現実に忙殺され、子どもの頃に見た壮大でファンタジックな世界は、もうそこには見えないかもしれない。
私の上司たちを見ていても、現実の話や、他人の陰口の話ばかり。前向きな話もないことはないけれど、どうも損得勘定とか自己成長とか、そういった目論見のようなものを感じてしまう。
私の感じ方こそ問題があるのかもしれないが、実際、子どもの頃のような会話は、そこにはない。
いや、大人なんだから、大人の会話で良いのだ。問題ない。
しかし、日常の中で、ほんの些細で良いから、童心を忘れないための言動なり行動なり捉え方なりがあっても良いのではないだろうか。
要は、無駄なものを楽しむ余裕と言おうか。(本当は無駄じゃないんだけどね。)
小さな幸せを探そう!
探しているうちに、今度は探さなくても見つかるようになると思う。
電車やバスに乗っているときは、景色を見よう。
たまには一駅分歩いてみよう。
いつも右に行っているなら、明日は左を通ってみよう。
いつもメールのチェックから入ってるなら、たまには二の次にしてみよう。
・・・そういった些細なことを重ねることで、幸福度というものは高まるのかもしれない。私はそう信じている。
つい先日の話だが、出かけた帰り、ウトウトしていて一駅分乗り過ごしてしまった。一駅分また戻ろうと思ったが、やっぱり歩いて帰ることにした。そしたら、我が家の近場にもかかわらず、見慣れない景色があった。新しい家が建ったりもして、でも懐かしい景色もあって、昔見た景色とは調和の仕方が異なっていた。
のんびり歩いてみたが、とても新鮮に感じた。そのうち我が家に到着したが、まるでいつもの我が家とは違った感じがした。でも、家の前にあるものは、いつも見ているあれだ。幸せを感じる、不思議な感覚だった。
今私は、レクサプロという薬を服用している。幸せホルモンであるセロトニンを調整する薬で、抗うつ剤のひとつ。私は別の症状を治すために服用しているが、最近の抑うつ気分にも働きかけている。
上の話は、まだ呑み始めて一週間くらいの時点での話。なので、効果が出るまではまだ時間がかかるはず。だが、小さな幸せを少しだけ感じられるようになったのは、ひょっとして薬のおかげなのかもしれない(たとえプラシーボ効果であっても)。
まあ、薬についてはまだまだ半信半疑なので、偶然かもな?とも思ってる。